天地の間にほろと時雨かな

 どうしようもない男というものはいるもので、嘘をついては親戚中から金を借りまくる。あげくに出奔してしまう。長くて数年、早けりゃ半年もすればまた家に戻り、何食わぬ顔でまた、親戚に顔出しなどしている。田舎というのはありがたいもので、未だに共同体が、少なくとも親戚の間では残ってるので、また、この男を受け入れてみんな暮らしている。そんなことを繰り返していた男だが、この男、地元の進学校を出て、東京のそこそこの大学に進学して、途中で退学。職を転々としながら、上記のような生活を送っていた。
 私の従弟である。彼は三つの時に農機具に左手を挟まれ、左手の親指以外の指を失っていた。私より七つ下で母方の叔父のひとり息子である。その叔父は、彼が小学五年の時自死した。家も近かったこともあり、私を慕い、いつも犬っころのように私の後をついてきていた。そして、私の後を追うように、同じ高校に入り、東京に出てきた。
最初の嘘はそのころ。彼は死んだ叔父の隠し子の話をでっち上げ、彼の妹に当たるその子への援助の必要性を訴え、私と私の兄から数百万の金をだまし取った。私たちは、事が事だけに親や親戚に内緒で金を借りて彼に渡した。微にいり細に渡る彼の虚言は、名人芸だった。幼いころから兄弟のように育ち、いつも慕ってくれていた男がまさか嘘をついて金をだまし取るとは思わなかった私たちも間抜けではあった。その金は、あとで彼の母親が返してくれたが、その後も、彼の虚言癖はなおらなかった。たまに田舎に帰ったときに顔を見ることもあるし、見ないこともあった。見ないときは、すなわち出奔しているときである。周りもだんだん驚かなくなり、苦労するのは、年老いた彼の母親だけだった。
 数年前、死んだ父の一周忌に帰ったときに、二人で近くのひなびた山の温泉に行ったことがあった。広い石組みの湯船と洗い場には彼と私の二人だけだった。そのとき、彼はぽつりぽつりと近況を話した。
 ある女性と知り合い、しばらく一緒に暮らしていたらしかった。ところが、その女性が癌になり、亡くなったという。最後は衰弱した体を毎日病院の風呂に入れてやり、体を洗ってやったこと、その女性には高校生の女の子がおり、その子も養っていたこと。女性の父親が人工透析をしており、その面倒も見ていたこと。彼は、そんな話をとりとめなく話した。この話は、本人の口から聞くのは初めてだったが、母から予め聞いていた話であり、どうやら今度は嘘ではないようだった。女性が死んだ後、女性の兄まで現れて半分たかられるような状態になり、たまらず、その一家と縁を切ったという。
 彼は、話を終えてしばらくの沈黙の後、どうして俺だけこんなに運が悪いんだろう。とひとりごちた。
 彼の行状のそもそもの原因は幼児期の不遇にあったのかもしれないし、彼が周囲をだましたのは、同じ一族に生まれながら、たいして不幸を味わうこともなく生きている者たちへの復讐だったのかもしれない。彼が最も金をせびった伯母は、かれが指を失うに至る農機具の誤操作をした人だった。伯母は戦争未亡人であり、娘二人と実家に身を寄せ、大きな農家であった実家の農作業を手伝いながら生きていた人で、決して彼に比べて幸せな人生を送っている人ではなかった。伯母はさらに甥の体を傷つけるという十字架を背負わねばならなかった。伯母は、従弟に終生甘かった。不幸と不幸が癒着し爛れていた。その伯母も数年前に亡くなった。
 そして、先月、従弟が死んだ。何度目かの出奔中に、実家の近くの町で、車の中で死んでるところを発見された。事件性は無く、おそらくは虚血性の心疾患だったようである。

   天地(あめつち)の間にほろと時雨かな

 虚子の句。時雨は天と地の間で生まれ、ほろと落ち消える。我々の人生が、所詮は諸行無常とはいえ、やはり、時雨のようなはかない人生は悲しい。従弟はどうしようもないやつだったが、あまりにかわいそうな人生だった。彼に幼いころは兄のように慕われながら、そして大人になってからも、おそらく慕ってくれていたろうに、私は、彼に何もしてやれなかった。もう少し、せめて話だけでも聞いてやればよかった。

 先々月、私は母を失った。親が子に先立つのは道理であり、ほぼ平均寿命だったこともあり、母の死はやむを得ないことと、穏やかにとらえることができた。しかし、母の、彼にとっては伯母の葬式にも来ていなかった従弟の、突然の死は、なかなか受け入れられないでいる。
 せめて、ここにこうして繰り言を書くことで、彼がこの世に束の間いたことの証としたい。

つまらない話につきあってくださった方、ありがとうございました。そんな男のことを、わずかの間でも記憶にとどめていただければ幸いです。